不老会誕生の秘話

1.「世紀の大事業・愛知用水」の生みの親

吉田茂首相(当時)と握手する久野庄太郎初代理事長

 不老会設立の背景には、世紀の大事業と言われた愛知用水の生みの親・久野庄太郎翁の秘話があります。
 愛知用水とは、水に苦しむ知多半島のため、昭和32年から始まった国家的プロジェクトであり、NHKの「プロジェクトX」にも取り上げられました。
 長野県の御嶽山に牧尾ダムを造り、木曽川から延々112kmの水路を引いて、知多半島を潤す。アメリカの技術を導入し、世界銀行の借り入れを受け、その後の高度経済成長の先駆けともなった大事業でした。
 知多半島の農民として、その夢の用水の実現に命をかけてきたのが久野庄太郎翁と同士・浜島辰雄氏でした。

2.500体の観音像

水利観音像

 愛知用水の工事は御嶽山中腹の牧尾ダム工事と同時に中流下流の工事もいっせいに始まりました。
 御嶽山は活火山であるためトンネル工事には十分な注意を払っていましたが、ある日とうとう心配していた火山性ガスが急激に噴出。現場主任は部下全員の避難を確認してトンネルから出てきましたが、出口で倒れて最初の犠牲者となりました。同時にこの事故で5名が尊い命を落としました。
 庄太郎翁は「こんな仕事を始めなければ、この人たちは死ななかった。私が殺したようなものだ」と現場でひれ伏し、以来、毎日朝夕の供養に努めました。
 しかし、工事は非情なもの。愛知用水の完成までに56名の犠牲者が出ました。翁は常滑の陶芸家に依頼して工事現場の土を混ぜた水利観音像500体を作ってもらい、恩になった方々に供養をお願いしましたが、ご遺族の心情を想うと悔やまれてならず、苦悩の毎日でした。

3.勝沼精蔵先生(名大総長)の助言

 庄太郎翁は日ごろお世話になっている名大医学部の勝沼総長を尋ね、「人柱に埋めてもらおうかと思っています」と苦しい胸のうちを訴えました。
 「死ぬことはない。私は医者として1万人か2万人の人を診てきたが、助けられなかった人も大勢いる。君は愛知用水を造って百万人以上の人を救ってきた。君は偉いよ」と勝沼総長は静かに諭し、こんな話をされたという。「今、医者の養成で一番困っているのは、人体の構造を教えることだ。そのためには実際の人間を解剖する必要があるが、昔は遺族の引取りがない人を警察の許可を得て解剖させてもらっていた。戦後は人権を尊ぶ上から、解剖用の遺体が足りなくなってきた。今、学生2人に1体という基準を満たすことができず、10人、20人に1体というような状態で、非常に困っている。私も頭は卒業した東大に、体はお世話になった名大に寄付することにしている」。
 翁は即座に献体の決意をし、戻って家族に話すと「あなたの行く所なればどこにでもついていきます」と妻の返事。
 その後の生涯を献体活動にかけるため用水建設の同志に働きかけ、その輪を広げてゆきました。当初、愛知用水に猛反対で「鎌で切ってやる」とまで息巻いていた人が300人以上の人を不老会に入会させたという逸話も残っています。
 ちなみに、不老会の献体登録第1号は久野庄太郎翁、第2号は久野夫人。第3号は共に生涯にわたって用水建設に捧げた同士・浜島辰雄氏(現在、名誉理事長)でした。
 翁たちの高い志の輪は、現在25,100名(R5.6.1)まで広がっています。

不老会の設立に至った愛知用水物語

一本の水路が知多、愛知、さらには日本経済発展の礎となった。愛知用水の生みの親、久野庄太郎と浜島辰夫の出会いから、用水完成までの歴史的秘話、そして不老会の設立へと引き継がれた2人の熱い想いとは。

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